ペストコントロールと公衆衛生史(1-2)
前回のコラム(1-1)の続きをご紹介します。
公益社団法人日本ペストコントロール協会 副会長 元木貢氏
8.わが国におけるねずみ・衛生害虫の取組み体制とその代変遷
(1) 戦前の衛生組合による活動
明治30年(1897年)に伝染病予防法が公布され、コレラやペスト対策には内務省の管轄により警察が対応しました。衛生組合の設立が規定され、明治38年(1905年)にネズミ駆除が市町村に義務化され、大正11年(1922年)には昆虫駆除が義務化されました。
(2) 敗戦直後の米軍政下の防除体制(昭和20(1945)~25年(1950年))
進駐軍によりDDT空中撒布の洗礼を受けました。発疹チフスを媒介するシラミの駆除には、占領軍が持ち込んだDDTが威力を発揮しました。昭和21年(1946年)には患者数3万2000人、死者3,000人)。GHQの命令により公衆衛生技師(8,700名)と衛生班(36万人)を編成。防除予算(現価約500億円)の支出、戦後の中で国家予算の最も潤沢な時代でした。米軍防除マニュアルによる教育がなされ、現在の防除技術体系の礎となっています。衛生組合が廃止されましたが、町内会として今でも残されています。昭和25年(1950年)に伝染病予防法改正、補助金が打ち切られ、行政の活動は衰退していきます。
図5. 街頭でDDTを洗礼(緒方,2012)
(3) 地区衛生組織活動全盛期(昭和25(1950)~40年(1965年))
昭和30年(1955年)、「蚊とハエのいない生活」国民実践運動が閣議了解され、地区衛生組織活動による防除事業が展開されました。組織人口は約70%に達しました(厚生省統計)。
図6. 住民による清掃作業(緒方,2012)
これは、方自治体の清掃行政の未熟を補完する住民の自衛策で、ごみ・下水の清掃、堆肥舍の管理、薬剤撒布等の組織的計画的活動でした。この時代から「衛生害虫の多くは人間社会の産物であり、環境の整備に本質的解決を求めなければならない」という理念が生まれました。昭和32年(1957年)日本環境衛生協会(現日本環境衛生センター)が設立され、4月には第1回全国環境衛生大会が開催され 2,500 名近くが参加しました。
図7. 厚生大臣より感謝状授与(緒方,2012)
(4) 市町村の衛生班活動(昭和35(1960年)〜平成11年(1999年))
伝染病予防法に基づき、市町村は衛生班を設置し、器具機材・薬品を常備し、公共的場所の駆除を行うほか、地域住民に薬剤を配布し指導しました。人口3万人につき班員4名の衛生班が設置され、施行規則に薬品が指定され、用法用量も明示されました。都市の標準的作業としては、下水溝の蚊幼虫に対する薬剤撒布、殺鼠剤の配布を伴う一斉ねずみ駆除の住民指導、患者発生時の患家周辺の煙霧作業がありました。
図8. 衛生班による煙霧作業(緒方,2012)
(5) PCOの台頭(昭和45(1970年)~現在))
不特定多数が出入りする建築物の環境衛生を対象とする「建築物における衛生的環境の確保に関する法律」の制定により、PCOの活動場面が拡大しました。PCO(ペストコントロール オペレイター・有害生物防除業者)は、プロの専門業者として都市建築物を主戦場としますが、最近は感染症予防衛生隊も編成し、感染症発生時の防疫活動にも枠を広げています。防除の対象は、衛生害虫から不快害虫に変わってきました。PCOは地方自治体(市町村)の感染症や有害生物対策の受け皿となり、市民の害虫相談、感染症予防衛生隊の設置、感染症患者宅の消毒、災害時(大雨、震災など)の防疫作業、感染症を媒介するねずみ、昆虫の防除を担っています。
図9. PCOによる防除作業(緒方,2012)
9.有害生物防除事業の現行体制
(1) Vector control (病害動物の防除)
- 行政:保健所感染症所管部局(媒介蚊対策、調査・企画)
- 検疫所(海外からの病害動物の監視、駆除)
(2) Pest control
- 行政:生活衛生所管部局 (住民相談窓口・建築物環境衛生監視)
- 住民: 自己責任
- PCO: 商業的防除作業
10.感染症法の制定
平成11年(1999年)に感染症法が公布され、住民は自己責任で感染症の予防やネズミや害虫(そ族昆虫という)の防除を行うことが明確にされ、ますますPCOの役割が高まってきています。
殺虫剤や資機材の備蓄、市町村の衛生班の設置義務がなくなり、そ族昆虫専門職員、薬剤の配布が急速に減少していきましたた。全国の保健所も半分に減らされてしまいました。
「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」
ペストコントロールと”公衆衛生史(1-1)はこちら
ペストコントロールと公衆衛生史(1-3)に続く(2025年4月予定)